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【ベスフレアドベント2020自由参加枠】とっくんP♪、20歳手前の自分史を振り返る。【10年後の自分へ】

この記事はベスフレアドベント2020の自由参加枠の寄稿記事です。

昨日はベスフレの運営のまさらっきさんのお嫁様でもあるよめらっきさんが担当!

最初ベスフレで会ったときは「「よめらっき」ってだれなの…?」とか「え、まさらっきさん結婚したの!?」とかいろいろ情報の整理がつかない中で、今年の夏のネット超会議6日目の超ニコニコ結婚式での衝撃の事実は今でも忘れられません。そんなよめらっきさんは今回結婚6ヶ月の日に投稿。短かったですがすごくいい記事でした。

よめらっきさんの記事はこちらから。

tanoseesaw.hatenablog.com

 

 

やっほい!20歳まであと1週間のとっくんP♪です♪

 

今年のアドベントは自分の20年を振り返って何やってたのかを振り返るあれこれにしようかなと思います。

思い返せばもうすぐ自分がこの土地に生をうけてから20年という大きな節目を迎えるという一つのゴールみたいなものが見えてきていると感じます。

正直、自分の20年の歴史をただ書くだけなので、見どころはないかもしれませんが、もしよろしければ、最後までお付き合いいただけると幸いです。

 

誕生

私が生まれたのはクリスマスも通り過ぎ、年どころか20世紀がくれようとしていた2000年12月28日の11時頃。実は松本生まれと言っていますがガチで生まれた場所は松本市ではないのですが、松本とくくられるところ生まれなので松本生まれと名乗っています。

当時生まれた病院で最後の20世紀生まれの赤ちゃんが自分であるとも親から伝えられています。世紀末生まれといつも言っているのはここが由来です。

幼少期

親いわくめっちゃおとなしかったそうです。この頃からすでに鈍感具合がやばかったようで極稀に保育園がパニックになる一騒動も起こしてたとかなんとか。(覚えてない)

そんな自分はすでにDDRをPSで遊んでいたりします。(音ゲーの始まりはここから)

小学校時代

小学校は6年間なんとか行けたのですが、この頃からすでにいじめられっ子の立場に。先生もいろいろと適材適所で対処してくれました。このときすでに発達障害であることも発覚していて、親が隠しながらも病院に連れて行って薬をもらったりしたのもころから。いじめは学年が上がれば上がるほどヒートアップしていきましたが、どの先生も色んな面でサポートしてくださったおかげもあってなんとか行けました。

中学年後半では、担任の先生から学級だよりの印刷を任され、毎日帰りの会の前の5分間は教室と印刷室を行き来したり、たまに学年だよりの印刷も任されたりと、普通だったら生徒が入ることがない部屋にさらっと入って作業したりしてました。

高学年のころはいじめがさらにひどくなる中でも、先生が守ってくれたりした反面、この頃から宿題サボり魔の称号が付き始めたのもの頃。宿題借金なるレベルのものがありすぎて、平日はほぼ毎日放課後は30分の宿題借金返済のための居残りの日々、一方でボカロを知り始めたのもこの頃。これが今の自分に大きな影響を与えます。

小学校6年の頃には交通事故に遭うが命に別条はないものの、ここでは書けないレベルの顔面下側大惨事に遭います。

それでも、小学校のある意味逃げ場所としてよく行ってたのは校長室でした。

校長室といえば、お説教だったり表彰だったりと怒られるか褒められるかの2択でしたが、当時の校長先生はめっちゃくちゃオープンで休み時間で表彰や大事なお客様がいらっしゃったりとか出張でいないときを除き、常時生徒が遊びに入ってもいい場所でした。

そのときの校長先生は本当に優しくて、色々話を聞いてくれたりしましたし、校長室においてあるボードゲームで何度か先生と遊んだりもしました。

小学校卒業手前の頃に今でも校長先生から言えない話ではあるものの、私だけに教えてもらったこともありますし、本当に小学校時代は懐かしいです。

小学校卒業式のあとの最後の帰りの会で号泣して、謝恩会で挨拶したのは覚えています。あと校長先生が定年でやめられたのも覚えています。

担任の先生にとっては小学校最初の卒業生であり、校長先生にとっては最後の卒業生でもありました。今でもすごくいい思い出です。

中学校時代

中学校時代は、挫折の連続でした。

中学1年の夏休みまではいけたものの、2学期に入った途端精神的ダメージが蓄積されまくり引きこもりに。

このときの自分はボカロが支えになりました。

この時点で特別支援学級に籠もるようにもなり、オタクな後輩たちと一緒に過ごしてきました。

その反面、ボカロ知り始めた私はニコニコを始めます。私はQ時代の住人なので当時で言えば愛言葉Ⅱなどが出た頃。こっそりやりつつがメインでした。

中学2年の頃には引きこもりをこじらせながらもなんとか過ごしていました。そんな中で出会ったのが艦これとアイマスアイマスはシンデレラとミリオンをほぼ同時期に始めたりしています。

中学3年は進路を決める中で迷いながらも過ごす日々でした。修学旅行に関して言えば珍しく原級クラスの人達と一緒に移動したりする中で、当時としては珍しく京都散策をタクシーではなく公共交通機関で自由に散策する方式で、先生同伴の実質ソロでの自由散策をしたりしました。

そして夏の初め、MMDでの動画投稿を開始。人生を大きく変えた瞬間でもあります。

年がくれようとしていた頃になり進路がようやく定まり通信制での高校進学もこの頃に決めます。

そして年が明け、第16回MMD杯本選。1本の動画が私の全てを変えました。中学で過ごす時間もあと僅か、高校も決まり残り僅かな支援級の人たちとの時間を楽しむ中、とある知らせを受けます。

MMD杯での本選作品受賞

これがすべてを変えました。MMD杯という場所でまさか自分がキリ番賞とはいえ、賞をいただけるということで本当に大きな自信に繋がった出来事でした。

受賞したときは、ものすごく信じられなくて親や支援級のメンバーにも「MMD杯に上げた動画が受賞した!」って喜びのあまり自慢してたと思います。今でも誇りに思っています。

高校時代

卒業して選んだ高校は通信制高校に入学。引きこもりの自分にとってはこれ以上いじめに会いたくない気持ちや、これまでの環境とにた環境にいるならいっそ変えてしまったほうがいいと思っていろんな繋がりを切り捨てる代償を負う代わりに通信制高校に入学。

毎日苦手な手書きレポートとの戦い、そして文章構成力がほぼ0に等しい自分にとってきつい感想文など本当に乗り越えるのに必死な日々でした。

コミュ障ながらも友だちが欲しい自分にとっては、最初は孤独に過ごしながらプロミラでらっくすをお昼休みにひたすら遊んだりしながら過ごす反面、とあるきっかけでできた友達といろんな繋がりができました。

ディズニーランド行ったり、東京散策したりと行事も色々あり青春を楽しんでいましたが、そのPCが壊れてしまいMMDは一時活動休止するなど苦難もありました。

タブレットも手に入れたりとモバイル面では徐々に進化をしていきました。

そして3年の年は自分でもやったことがない1年を通して春夏秋冬の作品を作り上げるという、今振り返ると無茶な目標もこなしていました。さらに、その年度は本当に自分でも経験したことがないことを立て続けにやるという、限界突破にも近しい状況でした。

2018年12月 それは忘れられない2つの初めてを体験した月でした。

12月1日。人生初の一人旅とドームライブ。

今でも忘れられない人生初の県外。行き先は愛知県名古屋市。目的地はナゴヤドーム。しなのに揺られ名古屋に初上陸して、一人という目線で見る都会の景色はすごく違いました。初めてのペンライト、初めてのSuica、初めてのナゴヤドーム、初めてのライブと様々な面で初めてを経験しまくる日でもありました。

目的はアイドルマスターシンデレラガールズ6thLIVEのナゴヤドーム公演1日目の鑑賞。このときナゴヤドームで初めてアニメ・ゲーム関連のライブが実施されるということもあり、その歴史的瞬間に立ち会うことができました。たくさん声出して、たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん振って、本当に夢のような時間を過ごすことができました。いまでもいい思い出です。

 

totkunn2000.hatenablog.com

そんな楽しい思い出の後に待ち構えているのは「最後の試練」でした。

12月16日の夕方、私は長野駅に一人向かっていた。気づいたら夜になっていたころには長野駅に到着。しかし、まだここはチェックポイントに過ぎなかった。そこからバスに乗り込み、降り立った先はなにもない高速バス停だった。

そして乗り換えて、向かった先は長岡市。高校のスクーリングのためだけに松本から長野を経由して長岡へ向かい5泊6日のスクーリングを受けるという学校でもなかなかないことに挑戦していました。

見知らぬ土地で、過ごす毎日。頼れる友達はいない。なかなかご飯食べようにも結構辛かったりと、本当に精神的にはきつかったです。そして何よりも先生に「どこから来たの」って聞かれて「松本からきた」というとほぼすべての先生に驚かれたりもしましたし、中にはなんとマンツーマンで1対1の授業も経験しました。その時の先生とも打ち解けたりとかもしました。本当にあのときは授業をするためにきてた先生たちと打ち解けてお話ができたことが心の余裕にもつながったと思います。それに加えて駅前にあったイトーヨカドーのゲームコーナーが機種も豊富でメンテも良くて音ゲー大好きな私からするとここも大きな支えになったと思います。

最終日のテストが終わり、最後の飯を買ってから電車を乗り継いで松本へ向かうのですが、その中で新幹線に初乗車!!そして、6日間のご褒美アイス「スジャータプレミアムアイスクリーム」またの名を「シンカンセンスゴクカタイアイス」 は本当に6日間を駆け抜けたご褒美にふさわしい美味しさでした。

そんなクリスマスと誕生日のダブルパンチ旅修行の12月は今でも鮮明に記憶が残っています。

 

今は…

2019年大学と就労移行支援を同時に始めたのはいいものの、両立がうまく行かずな上に、今もなお職が見つかっていません。

下手すると自分は働くのが無理なのではないかとも思い始めてます。

ですが、それでも就労支援してくださるところに入る方向で進めているとはいえ、まだ不安も残ります。

それでも、日々こうして優しく接してくださるベスフレの皆様には大変感謝しています。

最近ではスライムさんなんかはAPEXの基礎を丁寧に教えてもらったり、ろびにゃはこうしてベスフレアドベントを立ち上げて今日こうして4年連続のアドベントを書かせていただいています。

 そらいぬたんは、自分にとっての憧れの一人でもあるし、う棒くんは音ゲーマーとしてはこれからも期待している一人だし、ranaさんは同郷民として尊敬していますし、今はいないけど姫ちゃんはいた当時は本当に心の支えにもなった一人でした。

今いない人たちもそうだけど、ベスフレには感謝しかないです。

一生付き合わなければいけないADHD学習障害を抱えながらも日々自分でもなにかできないか恩返しできないかと悩みながらも、こうして毎日を過ごす事ができていることや、ここにいることが自分にとってすごいことだと思っています。

自分みたいな性格でこんな障害持ってるというだけでも嫌われるかもしれないという不安がありながらも、発達障害があるという意思表示をし続けているのは「自分を守るため」かもしれません。

自分にはまだやりたいことがたくさんあります。

 ・ニコニコ動画で100万再生する動画を作りたい。

・女の子になりたい。(コスプレしたい)

・ココアだけではなく自分オリジナルのキャラとMMDモデルを持ちたい

・ バイク乗りたい

・もっと多くの人達と色んなお話がしたい。

・もっとライブに行きたい。

etc

書ききれないくらいやりたいことがあります。そのためにも今後、数万倍の力を出していかないといけません。自分にとって20年間の中で見えてきたのは「自分は発達障害を持っていない人たちに比べてもっと多くの努力をしなきゃいけないし、多くの人たちの支えがないと生きていくのが難しい」という点です。言い換えれば「自分には仕事で役立たないスキルが多すぎるが、それ以前にアドバンテージがありすぎて誰かの支えがないと生きていけない。」ということにもなります。

 これからも、迷惑をたくさんかけるかもしれません。

 その時は優しく見守ってください。やさしく叱ってください。自分でもそういう面は自覚すると戻すことができると思います。

 そんなわけで改めてですが、1週間でとっくんP♪は20歳になります。12月27日の誕生日前日19時に「MMD杯ZERO3」参加作品を公開します。これが10代最後の動画投稿作品となります。

テーマは「10年後の自分へ。」

また、20代に入るに当たり新たな挑戦として「超即興MMD」のイベンターとして活動を開始しました!今後もやっていきますのでよろしくおねがいします。

 

そんなわけで20代に入るとっくんP♪を今後とも何卒宜しくお願いします。

 ではまた。

 

次の方はあほくすさん!なんとマジカルミライプログラミングコンテストに挑戦したとのことなので、結果はどうだったのかきになります!

あほくすさんの記事はこちらから

 

 

※記事本編はここまでです。ここからはおまけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10年後の自分へ。

なんか書くのも恥ずかしいけど、元気にしているかな。というか生きてるかい?

10年前の今頃こんな記事書いてるけど、大学卒業できた?就職しちゃってる?

10年先の自分宛てだからなにもわからんよな

下手すればコロナ騒ぎでこんなことになるなんて自分も思わなかったし10年後どうなってるかわからんしね。

でも、10年後の自分がもし大好きなことを続けられているのならそれはそれでいいし、新たな好きなことが見つかったのならそれもいいと思う。

10年前の自分はあれこれあったけど、ベスフレや動画を見てくれてる人たち、そして家族や支えてくれている人たちのおかげもあって生き抜くことができているよ。

でも、これだけ多くの人たちの支えがあること忘れてはいけないよ。このアドベントだってたくさんのつながりがあってこうして今書かせてもらっているし、なんなら10年前に作った10代最後の作品と銘打ったやつは今書いてる自分に対するメッセージでもあるよ。思い出せたらぜひ見てほしい(その前にニコニコ残ってるかな…)

まぁ30になろうとしてる自分よ、体には気をつけてな。

あ、あと10年後に嫁できていたらその嫁さんにもよろしく伝えておいてくれ。頼むよ。

それじゃまたね。

10年前の自分から とっくんP♪